昭和四十五年七月十八日 月次祭
今月の信心目標。お互いの信心の稽古をさして頂いております、どういう所に焦点をおいて信心の稽古をさしてもらうかという事が、この頃、月々焦点を出して、そして一日のお月次祭に皆さんに聞いてもろうて、その事に焦点を合わせながら修行さして頂くという事。今月はちょっと間がぬけたようですけれども、私も今初めて見せて頂いたんですけれど、私が書いたのは早くだったけれど、漸く今日出来てきたという訳なんでしょう。皆さんもう御承知の通りでございますけれども、これをやはり目に付く所に張っておいて、今日はどんな具合でもどんな事柄にでも「今月は修行月だ」と「その事を修行さしてもらおう」と「ここで云いたいけれども云わんでこれをいっちょ修行さしてもらおう」というようにです、一人だけではない、家族中の者がね、この気になって、ひとつ信心の修行をさして頂こう。という事をです、そりゃそれぞれに言い訳もあります。いろいろに「私はそげな生き方じゃなくてこういう生き方」という生き方の人もありましょう。ありましょうけれども、合楽に御神縁を頂いとる限り、やはり合楽の信心の進め方というものをです、まずひとつの目当て、焦点にさしてもろうて、そしてお互いがひとつ足並みを揃えて手を取り合って同じ方向へ向かってのひとつ信心の稽古をさして頂こうというのが、八月は八月で又頂くでしょう。これを皆さんずっとためて頂いたら又ね、先々これがお役に立つような事にもなるだろうという訳でございますからね、皆さんがその事を認め合うて下さらなければいけません。「親先生はあげん云いよんなさる、合楽の教会ではそげな修行かもしれんばってん、俺達は俺達で俺の生き方があるから」なるほど生き方があっていいのです。けれども、そこんところに焦点をおいてですね、皆さんの生き方も又重んじていくというか、それを行じて行かれたらよろしいのですからね。とてもとても私共でも手が届かんほどしの修行しておる人もありましょうし、又信心の素晴らしい焦点をもっとる人があるかもしれません。けれども、もう信心の老いも若きもです、合楽に御神縁頂いておる人達がみんな一丸になって「今月は」という、そういうところへ焦点をおくことをみんなが認め合う。認めるという字はね、ごんべんにしのぶと書いてあります。それはだから、云う事もあろうけれどもね、言い訳もあろうけれどもです、その云う事を忍ばしてもろうて修行さして頂こうじゃないかというのです。今月も、もう修行もほとんど半ば以上を夏期修行を終わらして頂きましたが、あと残されておる十二、三日をです、ひとつ本気でまだそこにいわば焦点を合わせていない人は、ひとつ本気で焦点を合わせて下さらないとね、大きな合楽の力、大きな合楽の働きとなってこないのです。
最近、団体の助かりという事が云われますがね、合楽が助かるという事、合楽全体が助かるという事、その助かりの中に私も入っておるというおかげでなからなければね「私はおかげ頂いとるけんで、そげんおかげ頂いとらんもんのような訳じゃいかん」という事じゃいけんと。まぁだそんな事を言えれるとは思われません。思われませんけれども、やはりそういうところに腰掛けておる人もやっぱたくさんあるのでございますから、どうぞひとつ言い訳もあろうけれども、それを認めて云う事を忍んでひとつ残されておる十何日間を、これはもう修行はいつまででも続く事ですけども、とりわけ夏期修行と銘打っての修行をお互いさせて頂いておるのですからそれに参加させてもらう、参加が出来んならそれに匹敵する修行でもひとつ内々でお話し合いになって家族あげて修行をして下さる事。そこからひとつの力、祈念力、とりわけ今一時からここで御祈念があっております。それは確かに御祈念力が身に付いていくようですね。御祈念をする力というものが、それだけ神様に向かう迫真の、というかね、神様へ迫るようないうなら力というものを養わせて頂くという事の上に、大変有り難い結果が生まれてくると、私は信じます。
先ほど、今日は前講をはたのさんがなさっておられましたが、はたのさんらしいお話でした。中にもう昔の話というて御主人が昔からお道の信心しておられましたんで、その頃、御主人が話しておられたという話をしておられます。
ある方がお参りをさせて頂いて、その当時はお賽銭一銭の時代。間違えて五十銭硬貨を入れたという訳です。「あーしもた」と思った時には、もう入れてしもとるから、もう「五十日間は入れんでよかろうか」と、はたののお父さんに相談されたという。そういうような例えば笑い話のような話ですけれども、やはりお互いがですね、そういう事に直面致しますと、「あら、しもた」と、こういう訳なんです。だから「あら、しもた」ではね、やっぱり「あら、しもた」になってしまいますからね、「はぁ、おかげ頂いた」と受けれる稽古をさせて頂こうというのです。
昨日、私は親教会のお月次祭におかげ頂きましたら、親先生のお説教が今月の御本部への月参りの事のお話を中心にしてお話下さいました。お届けをされる前にある方に金光様が一生懸命、御理解なさっておられるのを御祈念しながら聞くともなしに聞いておられたら、その中にこういう事を金光様がおっしゃっておられると。ほんとに有り難いお言葉であってから覚えてきたと云うて、それを又私に話して下さった。
昨日の一時の御祈念でしたかね、昨日の御祈念にその事を中にそれをはさんで、又今朝からも意味合いの違った意味においての、今日の御理解は「しっかり信心の帯をせよ」という事でしたかね。しっかり信心の帯をして本気で、例えば教えに取り組むという事は、しっかり信心の帯がでけとらなければ、取り組めないという中に、そのやっぱり御理解が出ております。今晩も、又私は皆さんに同じ事を聞いて頂いとる訳ですけれども、いわば内容は違う。今日はいわゆる、信心の今月の焦点は修行と。修行月という意味においての事なんです。それに金光様がその参拝の方にお話なっておられる事が「有り難う、有り難う受けんと物事が成就致しません」とおっしゃっておられる。「有り難う、有り難う受けていかんと物事が成就致しません。」「いやーわたしゃー不平も云よるばってん、おかげ頂きよる」そういうつまらんおかげじゃない。神様、金光様が云うておられるおかげが成就しないというのは、神様の願いが成就しないのだ。神様が私にかけて下さる願いが成就しないのだ。例えば、久富さんなら久富さんという信者に神様がかけてござる願いというものは、もうそれこそ私共が夢にも思わないような事であろうと事思います。そういう夢にも思わんほどしのおかげが成就しないというのであります。私はそれを頂いてもうほんとにそれをね、新たな事として頂いた。 「喜びに喜んで開けた道」とか、というような意味においては、なるほど「喜びには喜びの花が咲く」という御理解は、もうどれだけ頂いたか分からんけれども、又、新しい響きをもって、昨日の親先生のお話の中から金光様のお言葉として、それを私はそういう風に聞いた。「有り難う、有り難う受けていかんと物事が成就致しません」とおっしゃる。皆さんが、例えば願うておる事でもです、本当な事の願いが成就しない、それでは。そこでです、有り難う有り難う全ての事を受けるぞという、私は決心が必要だと思う。
昨夜の御祈念に熊谷さんがお参りになってから、昨日の一時のそれを頂かれてね、もうほんとに今日の昼の御理解を新たな事として頂かれた。そしてもう全ての事を有り難うに有り難うに受けさせて頂いとりましたら、嬉しゅうなってきた、段々有り難うなってきた。本気で行ずるぞという気になる事は、そのように神様がお喜び下さる事が分かったと。夕べの御祈念に、又参ってその事をお礼のお届けをしておられます。又、北野の秋山さんもほんとにその事を新たな事として頂かれた。もう行く道、帰る道、道、又帰ってからもお商売に出てからも、有り難うに有り難うにと受けさせて頂く事をね、一生懸命努められた。ところが夕方になってから、家庭の中にちょっとした問題があった。ちょっとした問題じゃない、親としては子供の事ですから、大変な問題なんですけれどもです、「はぁそげなこつでどうするじゃろうか」と思うたらほんの今まで有り難うに有り難うに、が崩れてきた。そして一口云おうかというくらいな気持ちが、又ムラムラ起こってきた。と、今日は云うておられます。ですからね、まぁ熊谷さんなふが良かったったい。(笑)いわば決心のほどが違うておったのじゃなかろうかと思う。いや、常日頃の修行が違っておったのじゃなかろうかと思うです。ねっ。秋山さんもそれこそ、人後に落ちない修行が出来ておられます。ほんとに良い信心をなさいます。熊谷さんもやっぱり同じ事。けれどもね、熊谷さんの場合と、そんならこれは内容の事は分かりませんよ、けれども修行という事を、例えば今日の御理解から、というとですね、いうなら一分でも疎かにされんですね、熊谷さんは。だからそういうところが、違ってきたのじゃなかろうかとこう思う。だからお互いがです、本気で例えば、有り難う、有り難う受けていく事がです、全ての事が有り難いと限ってはいないけれども、日頃の信心修行がです、物言うてくる。そういう時に日頃の信心修行がです、例えば一銭でよかつを五十銭玉を入れて「あら、しもた」と思う心と、途端におかげを頂いた。そして、後で秋山さんが云われるよーと考えよったらほんと神様のおかげを頂かな出来る事じゃないのに、私が云うたからというて、心配したからというて、そういう事があったおかげで私の有り難いものが一段と深められたと思えれるのに、とっさにその時には有り難う受けられなかったというところにです、秋山さんの信心不足をちょっとばっかり感じる。そのようにこの修行という事は、私は大変な事だと思うんです。
これも私共子供の頃、よく聞いておった話です。久留米に何とかという魚屋さんが毎日、久留米の櫛原教会に日参をされる。魚屋さんの事ですから、あがって拝む訳にはいかん。それでこっちの方から賽銭箱が入り口のところにおいてあるところへポンと投げて入れる。昔の魚売りさんは財布の事を<かっせ>という。 そして、その魚屋さんがお参りさして頂いてかっせの中に手をつっこんで手に一番初めに当たったのがお賽銭だという事になる。一銭しか当たらん時には「あいた、今日はあんまり商いがなかばいの」ち云いござった。五十銭玉が当たったら「今日はおかげ頂いた」といって手を叩いてから喜びござった。五十銭が手に当たった、五十銭が有り難く奉納出来た時には、必ず商売が繁昌したという。
私の母なんか、そういう流儀をとっておった。一番初めにぐちを、例えばお供えし、こげな真っ黒い竹筒がそん中にチャランチャランとこう入れよったのを覚えとる。だからお酒を売って【 】炭一票とか酒一升とかいう時には、やっぱ七十銭から一円する時があった。そん時は、おかげ頂いたと云ってから、とりわけおかげ頂いたと云うて中に入れよった。だからこれは金銭だけの事じゃない、お供えだけの事ではない、どのような事であっても実は。有り難う、有り難う受けるという稽古なんです。それが五十銭が一円であってもです「しもた、今日は損した」じゃなくて、おかげ頂いたというその心がおかげなんです。そういう信心がです、これは金だけの事ではない、お供えだけの事ではない、日常生活の上に起きてくる様々ないやな問題もありましょう、辛い苦しい悲しい恥ずかしいとまぁ様々な問題がありましょう。そこんところを今日の御理解を頂くと、しっかり信心の帯をしておきませんとですね、「もう一周間前にしたけんで」と云ったごたるとで、もう、ずんだれとるです、必ず。自分はしっかりしめたごとあるけれども、それこそ五十銭硬貨が手に当たったら「あら、しもた」という事になるのです。そこで今月はね、皆さん、どうでもひとつそういう例えば修行月であるという事をまず認めるという事。又、自分の心の中に確認するという事。果たして修行の状態というものが出来ておるかという事、それも私だけでなくて家族中でです、「今月は修行ぞ」と、家内が何か買うというなら「待て待て、今月は修行月ぞ」。子供がお芝居に行くというたら「待て待て、今月は修行月ぞ」というようにですね、もう一家をあげて、そういう修行に取り組ませて頂けれる事を認める。そりゃ文句もあろう、この暑いのにと。
今日、昼の御祈念終わって、又いろいろ御用をしておられましたから、高橋さんです。「もう、あんたこのままおんなさってよかでしょうもん」と云ったら「いいえ、帰って又御用のありますけん、帰ります」三回帰る。朝の御祈念に参って昼の一時の御祈念に参って、又、今晩のお月次祭に参って来とんなさる。「今晩、又子供達を乗せてこんなりませんので、やっぱ帰ります」と云うて帰られました。私が福岡、合楽を往復三回いたしますと、一生懸命にタクシーが稼いでおるだけのキロ数を走られるそうです。だから「それだけでもご褒美を、給料をもらってもよかの」と私は申しました。私は修行とはそれだと思うんです。それは聞いたら馬鹿んごと云う人があるかもしれません。ボケとると云う人があるかもしれません。けれどもね、私はそこんところをひとつ本気でボケさせて頂いてです、今日、はたのさんのお話、又それから後から読まれたものの中に「平穏無事な時には、お得は受けられん」という言葉があった。それなら平穏無事になったら、もうおかげは受けられんかという。さぁそこにあるのが修行なんです。 平穏無事だからこそ今度は、有り難い有り難い修行が出来るじゃないか。その修行、その事がいうならば苦労である。そりゃ大変な苦労だと思いますね。例えば、三弁云ったり来たりしようと思うだけでも苦労ですばい。けれども、そこんところをですね、ひとつおかげを頂いてね、いわゆるその修行に参加さしてもらうというおかげを頂かなきゃいけん。
天地の親神様と私共の関係は、もちろん親子のようなものだと「信心は親に孝行するも同じ事ぞ」というのを、ここを最高の焦点としてお互い信心の稽古さして頂くのでございます。それにはね、段々、私は初めからそんな訳にはいかん、分からんのですから。まぁ友達位の所から入っていってもよかろうと思う。
今日、そこの合楽の久保山さんがお届けしておられます。「先生、先日先生がお留守の時に若先生から御理解を頂いたのが、頭の中から外れません。有り難うして有り難うして」その事をね、どういう御理解頂いたかと云われんから知りませんでしたけれど。とにかく、お仕事さして頂きよっても「生神金光大神様、天地金乃神様」と思わして頂いて、若先生があん時に云わしゃった一言を思いよると心の中が嬉しゅうなってくる。一生懸命そして思わして頂きながら仕事が<はかゆっことはかゆっこと>と有り難い。横から心ない人が話かけると、もう腹の立つぐらいにある。素晴らしい事ですよね。そのくらいに私は、もういわば久保山さんの場合は神様が恋人のようにあるのじゃなかろうかと思うです。寝ても覚めても金光様。寝ても覚めても金光様、金光様が脳裏から離れない。そういうところからです、若先生が修行中に手紙をよこした中にもありました。奥つきにお参りをさして頂いた。有り難い。最近は奥つきにお参りさして頂く事が楽しい。「只今、神様との恋愛中だ」というような言葉で手紙をよこしておりました。ですから、そういうところを通らせて頂く事も有り難い。けれども、それがですよ、例えば何かの機会にサッとさめてしまうような事がありますから、段々本当の事になってこにゃいかん。皆さんの場合、どのくらいの程度のところであろうか?まぁ親子、夫婦、兄弟、いとこ・・・ね。
金光様の事を今日も・・・ある方なんです。「金光様てんなんてん、あげな信心な」と云って云われるのを同じ場所におって聞かせてもろうた。でも何にも分からん。今日の御理解を頂きよって泥棒じゃと云われても、乞食じゃと云われても、とこういうような御理解を今朝から頂いて「はぁ昨日は、あの事を辛抱させて頂いておってよかった、あの人は分からない人だったからと思うた」と云って今日やはり合楽の方がお届けしておる方がありました。いうならばです、自分の親戚の事を、例えば大変仲の良くない親戚であっても、人が悪く云よると腹の立つ。という具合なのはどういう事でしょうか。まぁ親戚付き合いぐらいな、神様が。あの「いとこのきれはしは、他人の始まり」と云いますからね。そげな程度もやっぱあろうと思う。こうしてお参りはしよるばってんが【 】けれども、そういう人であってもです、段々濃ゆうなってくる血が。段々濃ゆうなっていくようなおかげを頂かしてもろうて、私は神様との、いわば恋愛状態と思われるほどしに、寝ても覚めても金光様の事が忘れられんというくらいにです、おかげを頂かしてもらう、そこんところをひとつの段階として、天地の親神様のお心と私共の氏子の心との結ぼりというものをね、頂いていきたい。信心の過程なのです。 ですからね、私共が本当に「合楽に、合楽に」という念が薄い時には、段々縁が薄うなっていきよる時ですよ、もう、いうならば。もう友達つき合いぐらいになっていきよる時。ですからどうでもひとつ私は、天地金乃神様と私共との間がらというものをです、理屈を聞けば親子の関係であるという事が分かるけれども、まぁいうなら段々親戚の意表をもって申しましたが、私共の場合、まぁ叔父さんぐらいじゃなかろうか、まぁだ神様は叔母さんくらいのものじゃなかろうか。いえいえ、もっと程度が低いかも分かりません。けど、そこんところをです、もう切っても切れんのが親子の縁であります。ですから切っても切れん深い強い、私は信心の縁というものが育っていくようなおかげを頂きたい。それを何から頂いていくかという事は、やはり私は修行だと思います。真っ黒い中に難儀がなからなければ、お徳が受けられんという事ではない。平穏無事、おかげを頂いておる、そういう時こそです、ほんとの修行は出来るのだ、有り難い勿体ない修行が出来るのだと。そういう修行にです、お互いが足並みを揃えようという例えば今月は月なのですから、その月にね、お互いが足並みが揃えられる信心を、ひとつさせて頂いて祈念力を養っていく、今まで例えばいとこぐらいであったなら、今度の修行によって神様と兄弟ぐらいなね、それ深い縁が結ばれてきたというようにですよ、ありたいもんだと私は思うております。
金光様のお言葉であります「有り難う、有り難う受けていかんと物事が成就致しません」。私共が自分の都合の良い事は有り難う受けられます。まぁ少々ぐらいなら、まぁよかよかで受けます。けれども、それがいよいよ自分の損になる事だという事になるとです、もうそれこそ、そういう事は御免被るという事になってきたんではです、せっかくのいわば五十銭硬貨だけのおかげが受けられるのをです、さっき私が申しました、魚屋さんの五十銭玉が当たった時ほど有り難いとそこで思えれる信心。それがちょっと難しい問題であるなら難しい問題であるほどです、それに直面した時には、いよいよこれの方がやはりおかげが受けられるんだという思いが、そく出来れるような信心です。
熊谷さんと秋山さんを例にとりましたが、一日その事を思い込ませて頂いて、有り難い有り難かったはずのが、ちょっと自分の家庭の関係が難儀な問題だと感じたら、もう今まで有り難かったのが有り難くなくなった、とこういうけれども、まぁよーと考えよったら、有り難い事になってきたというんです。ですから、いうなら五十銭玉が手に当たったら「はーこれは十銭くらいでよかったつに」と思うとと同じ事。「はぁおかげを頂いた」と頂けれる信心。それを私は熊谷さんの例をもってするなら、常日頃の修行が違うと申しました。その修行がです、私はいよいよほんとなものになって、それがほんとな血、肉になってくる時です、それこそ全ての事が有り難うに有り難うに受けられる。そこから神様の願いが成就してくる、いわばお互いの願いというか、いわゆる物事が成就していくところのおかげを頂くという事。思うただけでも本気で信心の帯を、そのへんのところにしっかりさせて頂いて、今月、残されておる十幾日間をですね、ひとつ本気で修行させて頂こうと、いう気になって認めて下さいて。神様はもう本当にですね、「おかげを受けてくれよ、受けてくれよ」という願いがいっぱいであるという事を。今日、朝私は、ちよっとそこで実感した事があるんです。今朝から朝の御祈念に秋永先生達夫婦、参ってみえられて「あの先日から、はんこを全部作り替えさせてもらいました」と。福岡に名人があります。その名人の人に、契印、銀行印、実印三つを頼んだ。見事に出来てきた。ですからその方は私を知っておられる方です。私の実印を前した方。ですから「これは神様にお供えして下さい」というて三枚のその実印の押したやつをお届けになっとる訳です。ですからそれを私は、秋永先生から版を借りてお届け帳に三つ押させて頂いた。そん時、気が付かなかった。いきなり同じここに入っておりますから、同じさくに入っておりますから何が何やら分からなかった。ところが私がお届けさしてもらいよって、よく見よったら、こまかつ、中位なつ、大っかつ順々に押しておるという事なんです。段々、段々末広がりになっておるという事なんです。「神様の願いというものは、ここにあるんだなと」というようなものをね、そん中から感じたんです。神様はいつもそのような働きかけをね、私共にして下さるんですよ。これより悪うてんなんてんない。これより、よりおかげを受けてくれよというのが神様の願いなんですから、私共、このままではいけんのですよ。ですから、より有り難い修行を、より有り難い信心を身に付けさせてもらい、成長さして頂こうという願いを持ち、しかもその願いがですね、家族中で今月は修行月だと、ひとつ認識してもらいたいと、こういう。それは文句もあろう、信心の薄い家内がどうか云うかもしれん、全然分からん子供達は、そげな事云うかもしれん。けれどもね、それを黙って認めるという事。ごんべんにしのぶという事はね、それは認めると云う事だと、今日私が申しました。だすから、その黙って認めたです、ひとつ付いていく信心、いわばせい信心の有り難さというものを身に付けていきたいと思います。
どうぞ、先ほど委員長が申しておられましたが、今度青年会でひろださんを迎えるという事です。せっかく来て頂くのですから、私は思うんです、なるほど来て頂いて、あの方の熱のあるところのお話を聞いて、信心を育てていたきいとも思います。けれども、何というてもこの方は、もう日本で有数のやはり信者さんです。それこそ五本の指なら五本の指に入るほどしの実力を持った御信者さんです。そういう方にですね、合楽の迫力、合楽の信心又は【 】例えば教えるじゃなくてですね、分かってもらって帰ってもらいたいという願いが私、いっぱいあるのです。来てもろうて稽古させてもらう事もさる事ながら、その事が全国にふいちょうされるという事は、合楽が宣伝されるという事ではなくてです、それだけ合楽的な、いうならばおかげがです、日本中に広がるという事なのですから、大変な私は意味を持っておる事ですから、ひとつ迫力のある修行をひとつ、まぁ見てもらおうじゃないですかと。私はそういう意味合いにおいても、さぁそん時に泥棒を捕まえて縄をなうような事ではいけませんから、もうここ一週間ほどあるんですからせめてね、それはね、見てくれとか見せれよとか云うものじゃないんですよ。向こうのねらいというのはね、本当に有り難い信心を、もうこれでなからなければ助からんと、これでなからなければ世界の、私は金光教と言えれるほどしの信心にしていく事は出来ないという、私のモットーですね、いわゆる和賀心時代という事なんですよ、いうなら。そういうものをね、持っていってもらうという事は、もうこげなよいチャンスはないのです。この頃から何回も見えられていっぺんに合楽の事が宣伝されました。だろうと思うんです。合楽の方を認識してみえた方達がたくさん出来てきておるという事です。ほんとに遠隔地からですね、そういう教えを求めてきゅうしんの方達もぼちぼちあるくらいです。 今度、私、大阪へ参りました時にちょっと時間があったから泉尾の教会によせてもらいましたんです。もうそれこそ日本一の教会で立派ですけれどね、私、たまがった事はね、やっぱり大阪ですよ、便所に行こうと思ったら鍵が掛かっとる。これは金を出さなきゃ、便所に行かれんとじゃろうかと思うてから思いよったらそうでもなかった。やっぱ夕方誰でん行きてのなかったけんで。それからお手洗いの水も止まってしもとる。それから向こうから来てから出してやんなさった。もう合楽あたりは、おかげ頂いとるなぁと思いますよね、そういう意味で。それは、もう見上げるほどしのその大変なおみやですよ、やっぱり。けれども、お広前には事務所に何人かおられる、誰もお参りがあってなかった。私がすすんでここでお届けをさして頂きましたら、後の方で事務所から見ておられた、あちらの若先生という方らしいんです、【 】「あっちはどうも合楽の大坪先生のごたる。写真で見た頭がどうもよう似とる」という訳なんです。だから秋永先生と正義さんが捕まえられてから、えーらい云われる。こっちは合楽なんて云わんで只、見げいっとるとですからね。けれどもとうとう「合楽です」ということになったという事ですがね。というように、どこにおっても、もう合楽という事は、そのように響いておる事なんです。私はそん時でも、ほんに誰でも百円づつでよか、自分もお初穂百円でかたづくかと思とったばってんね、そこが神様ですよ。自動車の中でちゃんと教えて下さったんです。ですから私、その通りの事をしておったから「本当に良かった」と思ったですよね。合楽の大坪、汚い所を見せるところだった。まぁそういうようなおかげ頂いてまいりましたが、そのようにね、合楽といえば確かにみんなが注目しております。ですからそういうこよない日本で有数の信者さん方が全国をまたに掛けてお話をして廻られる方達にです、合楽の信心というか、<しんか>というかそれは見苦しいところでも持って行ってもらっちゃ困るけれども、せめてね、何が何でもひとつ修行の勢いというか迫力だけぐらいはね、ひとつ持って帰って「このようなんだ」というような事を日本中にですよ、ふいちょうして頂く事は、そのまま合楽の信心の事ではない、お道の信心の私は進展にもなる事である。又、発展にもなる事を私は信じております。そういう意味においてです、ですからもう一週間ほどありますから、そん時だけの修行じゃなくてせめてお参りが出来てない方達は、せめて一時の御祈念だけでも三回とは云いません、一時の御祈念だけでもいいからみんながここいっぱい、われるような御祈念を奉仕をさして頂いておかげを頂こうじゃないですか。どうぞよろしゅうお願いします。